空白ごっこ・セツコの歌詞の魅力 共通点は「色」の感覚にあり

空白ごっこは、最近じわじわと人気を広げている、期待の三人組音楽プロジェクトだ。

構成としては、いわゆる「三夜」と呼ばれて親しまれている、ヨルシカ・ずっと真夜中でいいのに・YOASOBIらと同じく、女性ボーカルとボカロ系コンポーザーによるユニット。

Spotifyの月間リスナーは2022年6月現在で4万人ほどと、まだそこまで多くはない。彼らは、もともとはインターネットシーンを中心に活動していたが、2021年にはライブツアー「全下北沢ツアー」、2022年5月には1stワンマンをおこなうなど、活動の場をリアルへも広げつつある。

そんな空白ごっこについて、筆者が楽曲から感じ取ったこと、考えたことからその魅力を探っていく。

この記事では、とくにボーカルのセツコが書く歌詞の意味に注目しながら見ていくことにしよう。

空白ごっこの魅力はVo.セツコの書く歌詞にある

 

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空白ごっこの魅力は、やはりなんといっても、ボーカルであるセツコの歌にある。

彼女の歌の魅力は、もちろんその歌声や技術的な面で聴きごたえがあるというほかに、彼女自身の想いが詰まった歌詞にありそうだ。

セツコは、針原(はりーP)作曲による『なつ』で、初めて自らの手で作詞を担当したという。

空白ごっこの楽曲には、針原のほか、同じくコンポーザーとして参加しているkoyori(電ポルP)が作詞したものも少なくない。

しかし、やはりセツコ自身が作詞し、セツコが歌い上げる楽曲のほうにこそ、何か真に迫るものを感じるというリスナーも多いと感じる。

空白ごっこの歌詞における「色」の感覚

セツコの書く歌詞の背景には、実は楽曲を通じて共通しているような、ひとつの世界の捉え方がある。そこで、おそらく陰ながら特別な意味を担っているだろうものが、彼女のもつ、世界の「色」にまつわる感覚だ。

僕の頭の中には 無垢な惑星があって
いらないものが増えても 隠し方を知ってる
(空白ごっこ 「ふくたち」より一部抜粋)

『ふたくち』をこのように歌い出すセツコの感性は、世界になじんで生きていくことを、あえて「色」やディテールが失われた世界で生きていくこととして捉えている。

『ふたくち』のサビで歌われるのは、「僕」が日々を生きていくなかで抱く想いや葛藤といった「いらないもの」を「無垢な惑星」のなかに押し殺し、忘れてしまって、いわば「大丈夫になって」生きていくことに対する、漠然とした不安のような感情だ。

そうして世界になじんで(「大丈夫になって」)生きていこうとする彼女の目には、この世界は本来の「色」を失ってしまったものとして認識される。

それだから、彼女は「いらないもの」を葬り去るための心の中の空間を指して「無垢な惑星」という言い方をするのだし、あるいは『リスクマネジメント』に歌われるように、家族の前で何かの感情が爆発して「やりすぎちゃった」場面において、「今は透明マントが使いたい」という言い方をする。

つまり、『リスクマネジメント』で「透明マントが使いたい」という言い方がされるのは、ただ単純に決まりが悪いから、その場からいなくなってしまいたいという感情によるのではない。

この「透明マントが使いたい」という表現の背後には、自分の感情を「透明」なもので覆い隠してしまって、「色」のない「無垢」な存在になってしまいたいというニュアンスが潜んでいる。ここでも、単純に姿をくらますことではなく、実はすでに「色」を失うということが焦点になっているのである。

世界に「色」を引き戻してくれる「声」

世界になじんで生きていくこと=「色」やディテールが失われた世界で生きていくことという認識が同じように歌われているのが、『プレイボタン』のサビの歌詞だ。

私ハイになって灰になった昨日を望んでいる
つまりハイになって感覚のない生活と手を繋いでいる
(空白ごっこ 「プレイボタン」より一部抜粋)

この直後で「ちょっと覗いた虚しさ」という自分の感情について、やはり「私は知らない」とポップに歌い上げる彼女は、そうして「感覚のない生活」に没入する日々を「灰になった昨日」という「色」を失ったものとして形容する。

『プレイボタン』における「ハイになって」しまうことは、『ふたくち』における「大丈夫になって」生きていくことと同じようなニュアンスのものだ。

この楽曲のタイトルに含まれる「プレイ」とは、言わずもがな、音楽などを再生する意味の「プレイ」であると同時に、そうして「大丈夫」な私を演じてみせるという意味の「プレイ」に通じている。

一方で、そうして感覚を麻痺させるように「大丈夫」な私を演じ続ける日々について、彼女はやはり葛藤せずにいられない。

そうして溜めこまれていたものが堪えきれなくなって噴出するとき、彼女は決まって、走り出したくなる衝動に駆られるように、「声」を求める。そして、その「声」は、彼女の世界から失われていたはずだった、本来の「色」を引き戻してくる。

声が 声が 堰を切ってわたしを鮮明に
色付けんだ 曝け出したって そこにあなたがいるか保証がない
(空白ごっこ 「雨」より一部抜粋)

実際、『雨』の歌詞では、「堰を切って」溢れ出した「声」が「わたしを鮮明に 色づけんだ」と歌われる。また、『天』の歌詞では、「駆け上がれ」というフレーズに続けて「愛しい声が私のこと また呼ぶところに連れてって」「聞き慣れた声の奥の方 またあなたをみつけだせるのなら」などと歌われる。

いずれの歌詞についても、そこには、隠していたはずの私の感情を正しく受け止めてくれるような、他者の気配が予感されている。

セツコが歌詞のなかで走り出すのはなぜなのか

 

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もっとも、空白ごっことして歌われるセツコの歌詞は、そうして彼女の想いがいわば正しく受け止められる地点からは、いつも今一歩遅れてしまっていた。

どこか息せぬ雰囲気を感じさせる曲調の『雨』を締めくくるのは、そうして発せられた「声」に「あなたが気づかなくても わたしがわたしになれなくても」結局のところ「何でもない」という諦めにも似た述懐だし、そもそもどこかで間に合わないかもしれないと感じているからこそ、彼女はこういう歌詞のなかで、いつも自らを急かすように走っているのではなかっただろうか。

もうちょっとはやく走れたらいい
もうちょっと長く この道を
(空白ごっこ 「19」より一部抜粋)

『19』で歌われるのは、そうして世界から「色」が失われてしまうより早く、互いの「声」が届く地点にまで走っていきたいという願いだろう。

『19』に描かれる場面状況が「青が暮れる」、つまり、徐々に日が暮れて夜になろうとする時間帯であるのは、実際に世界から、昼間に見られるような鮮やかな「色」が失われようとしている状況に対応しているからである。

大雑把な見方ではあるものの、とくに初期のころのセツコによる歌詞は、いわば、すでに「色」が失われてしまった世界のなかで、どこか無理をしながら生きているような状況を実直に歌い上げようとした内容のものだった。

そうして感情を押し殺すように、どこかで無理をしながら日々を生きているような感覚は、しかし、彼女だけの特別な葛藤だったのではない。

実際、そうした想いの切実さに共感したリスナーは少なくなかっただろうし、その実直さが、とくに初期の空白ごっこの魅力のひとつでもあったと思う。

それに対して、最近のセツコによる歌詞には、いわば、世界から「色」が失われてしまうより早く、自分から誰かのもとへ走っていこうとする内容のものが増えてきたように思われる。

「大丈夫になって」、それで何かを忘れたまま生きていく葛藤を歌っているだけでは、私たちはどこにも辿り着けない。私たちと他者との関係が前に進むためには、世界に「色」を見出す私たちの感覚が本当の意味で失われてしまうよりも早く、互いの「声」に耳を傾けることができるチャンスが必要なはずだ。

もちろん、これはひとつの想像にすぎないのだけれど、そういう想いがあったからこそ、最近の空白ごっこの歌詞はしきりにどこかへ走りだそうとしているのかもしれない。

さいごに

 

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空白ごっこが音楽ユニットとして人気を得るにつれて、リスナーの数はこれからもますます増えていくに違いない。

そうしたなかで、きっと空白ごっこの側としても、これまでのようにただ実直に葛藤を歌い、共感を誘うだけの関係性から踏み出していこうと模索を続けている。

私たちが空白ごっこのリスナーとしてセツコの歌を聞き届けるように、彼女が、彼女自身の「声」が正しく聞き届けられる地点に間に合うことができたなら、空白ごっこの歌は、今までよりも一層「色」鮮やかな世界を私たちに示してくれることだろう。

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